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飼育生物の放流について

〜 飼育生物を放流することの是非 〜
(2004.02.11)

 

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最近一部で問題ともなっている飼育生物の放流の是非についての見解を述べたいと思います。
採集して(あるいはショップで購入して)飼い始めたは良いものの、
魚やその他の生き物が飼えなくなって、困っている方は是非、一度、
良くお読みになってください。

 

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海水魚を飼っていると、時々、
「飼えなくなったら海に逃がしてあげれば良い。」
という言葉を聞くことがあります。
「海は繋がっているんだから、どこに逃がしても同じだろう。」
と言うのです。

これは一見、もっともなことのようですが、完全に間違っています。
飼育している魚やエビやヤドカリなどを、自然の海に放流することは、(原則として)絶対にしてはいけないことなのです。

なぜでしょうか。
理由は大きく、ふたつ、あります。

そのひとつは、放流してもその魚が生き残れる確率が極めて低い。ということです。
考えてみれば当たり前のことで、例えば沖縄の温かい海で採れた魚を冬の日本海に放したらどうなるでしょうか。
それは極端な例だとしても、自然の魚はそれぞれが、それぞれに棲息する環境に合わせた生態を持っていますので、「海」という1点が共通するだけでは、環境に適応して生き残ることは難しいのです。
ですから、魚(やその他の生き物)を海に放流しても、それはほとんどの場合、飼育者の目の前で死なないというだけのことで、海の中で餌が採れなかったり、捕食者に襲われたりして、早晩、死んでしまうことに変わりはないと言えるでしょう。自分が手を下さないだけのことで、飼育者がその魚(やその他の生き物)を殺してしまうことに違いはないのですから、むしろきちんと、自分の手で、最期を看取ることの方が、生き物に対して誠意のある態度だと思います。

そして二つ目の理由は、このことの方が大切なことになりますが、飼育生物の自然への放流は、紛れもない自然破壊になると言うことです。

近年、日本の川や湖で、外来魚であるブラックバスやブルーギルが繁殖して、本来その川に生息していた生物が激減する問題が発生していることは誰もがご存知でしょう。我々がショップで購入する海水魚の多くは、フィリピンなど、遠い外国の海で採集された魚がほとんどですから、その魚を日本の海に放流することは、日本の川にブラックバスを放流するのと同じ問題を引き起こすことになります。

「肉食魚ではなければ良いのでは?」と思う方もいるかもしれませんが、間違っています。
放流場所の魚やその他の生き物を直接、食べてしまうことはなくても、放流された魚(やその他の生き物)は、元々その場所に住んでいた生き物たちと、食べ物や棲み家を求めて争うことになるわけですから、もし本来の生息種よりも放流種の方が有力であれば、やはり、その放流された地域から、本来の生息種が駆逐されてしまうことになります。上には「放流してもその魚が生き残れる確率が極めて低い。」と書きましたが、もし万が一生き残ってしまったら、その方が余程、大問題なのです。

そして、ことは魚やエビなどの動物には限りません。植物でも同じ。飼育生物が自然の海に放流された(人為的ではなくても)ことによって、どのような深刻な被害を引き起こすか、↓の記事はその例の一つです。
http://www.lit.sugiyama-u.ac.jp/teacher/2002a/wend43/KATOSE03.HTM
飼育生物を放流するということは、このように深刻な自然環境破壊に繋がるということを、我々は片時も、忘れてはいけないと思います。

さて、では、
「熱帯産や外国産の魚を日本の海に放流するのは行けないのは分かった。
 でも元々日本の海に住んでいる魚だったら、放流しても良いのじゃないか?」
そう考える人もいるかもしれません。
でもやっぱりそれも間違いです。

例えばカゴカキダイのような魚は、本州中部以南なら、どこにでも見られる魚だと思います。
でもだからと言って、千葉で採集したカゴカキダイを、南紀串本に放して良いのか、ということになります。
もしかしたら、全く影響はないのかもしれません。でも、もしかしたら、同じ「カゴカキダイ」とは言っても、千葉のカゴカキダイと南紀串本のカゴカキダイでは、微妙に、遺伝子レベルでは、異なった特徴を持っているのかもしれません。もしそうだとしたら、千葉のカゴカキを南紀串本に放流したことで、両者が交雑し、遺伝子レベルでの地域特性が失われてしまったら、その交雑の結果に対して、誰が責任を負うのでしょうか。一度失われた遺伝的特性は、もう二度と元に戻すことができないかもしれないのです。

採集をする人であれば常識の話をしましょう。
日本の海のどこでも、「キヌバリ」という、美しいハゼを採集することが出来ます。ところが、この「キヌバリ」、本州中部以南の太平洋岸で採取されるもの(太平洋型)と、日本海〜三陸海岸で採集されるもの(日本海型)では、体側の横縞の数が違うのです。ここでもし、太平洋型のキヌバリを日本海に放流して交雑して、どちらも太平洋型になってしまったとしたら、我々はもう二度と、日本海型のキヌバリを見ることが出来なくなってしまいます。そのことについての責任を、放流したあなたは取れるのでしょうか…。

まあ、キヌバリの場合には、それぞれの違いが有名ですから、わざとそんなことをする人はいないでしょうけれども、しかしもっと一般的な魚(例えばカゴカキのような)であっても、現在の我々が気付いていないだけで、実は非常に細かい、しかし決定的な、地域変異、地域変種というのがあるのかもしれません。同じお米でも産地によって品種に違いがあるように、地域毎の環境に適応した、ある特徴を持つグループが存在するかもしれないのです。
それが確かめられない限りは、たとえ本州沿岸の普通種であっても、やはり「放流は厳禁!」ということになります。「近海種だから良いだろう。」というのは、ある程度勉強した人こそ陥りやすい、大きな「罠」だと言えるでしょう。

さて、では最後に、飼育している魚(や、その他の生き物)を放流することは、全て完全に厳禁なのでしょうか。
一番最初に私は、「原則として」と書きました。それはただ一つだけ、例外のケースを認めても良いだろうと考えているからです。それは自分で採集した生き物を、採集した場所そのものに放流する場合です。

自然の海で採集したものをしばらく飼育した後、採集した場所に放流するのであれば、もちろんそれでも完全に自然のままとは言えません。飼育期間の長さによっても違いますが、ある程度の期間、人工的な環境の中で生活したわけですから、その間に自然の海ではあり得ない、ざまざまな変化が起きているかもしれません。
ただ、それでもやはり、外国からの輸入魚を放流したり、他の地域からの移入魚を放流したりすることに比べれば、ずっと、自然環境への影響が少ないはずです。もし何かの影響があったとしても、自然の回復力で、何か取り返しのつかない、決定的な変化を与えることは避けられるのではないでしょうか。
自分が採集した魚を自分の手で自分が採集した場所に放流する、それだけは、「放流厳禁」の例外として認めたいと思います。

ただし、だからと言ってもちろん、いたずらに捕まえたり放流したりを繰り返しても良いと言うものではありませんから、その点には御注意下さい。
一度採集すればやはり、それだけで魚には大きなストレスが掛かり、粘膜が傷つき、体力が落ちるのです。いくら元の場所に戻すと言っても、放流された魚はやはり、ほとんどの場合、死んでしまうだろうと思われます。生き物は我々、人間の「おもちゃ」ではありませんから、最初から「飼えない」と分かり切った魚を捕まえたり、最初から逃がすつもりで捕まえたりすることは止めて下さい。

一度飼育を始めた生き物は、出来うる限り最期まで、天寿を全うするまで飼育する。
それでもどうしても飼育出来なくなった時には、

(1).まずは近隣の海水魚ショップに引き取ってもらうことを頼む。
(2).引き取ってもらえない時には、責任を持って自分の手で殺す。
(3).自分で採集したものであれば、採集した場所に放流する。

こういう優先順位で考えて欲しいと思います。

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