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三線と奄美・沖縄民謡の世界[1]

三線と三味線

 

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三線の稽古と勉強を始めてから、これまで20年以上毎年のように沖縄に行っていたのに、
実は沖縄の音楽や三線についてはほとんど何も知らなかったし、また間違った事を憶えている事も多いのだ
ということを知りました。

そこでこちらのページでは、そうした知識を中心に、
琉球三線や八重山民謡について最低限、知っておくと良いと思った知識を掲載していきます。

でも所詮素人の聞きかじりなので、かなりの間違いや思い違いがあると思いますが、
そんな時は堪忍して下さいね。

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三線(さんしん)とは
  三線(さんしん)は、14〜15世紀頃、中国から当時の琉球王朝に伝わったとされる3弦の楽器で、中国語の発音(sanxian?さんしぇん?良くわかりません…苦笑)から「さんしん」と呼ばれるようになったようです。

長さ80cmほどの竿(ソー)と、18cm四方くらいの胴(チーガ)から出来ており、胴に蛇皮が張ってあることから、ヤマト(沖縄県以外の日本国)では「蛇皮線(じゃびせん)」などと呼ばれたこともありましたが、実際に三線を使っている地域(奄美諸島から八重山諸島に至る琉球弧)で「蛇皮線(じゃびせん)」と呼ばれたことは、歴史上、一度もありません。普通は「三線(さんしん)」もしくは単に「三味線(しゃみせん)」と呼びます。
沖縄で「三味線店」というのは、この「三線」を作って売る店で、(三味線店はたいてい、製造直売)邦楽の三味線は置いてありませんので御注意を。

   
三線の皮(蛇皮)のこと
  三線の胴に張ってある蛇皮を「ハブの皮」と考えている人も多いと思いますが、ハブは胴体の直径が2〜3センチの細い蛇です。直径が18cmもあるような、三線の胴には貼れません。
三線の胴に張ってある皮は、三線が最初に中国から渡ってきた時からずっと、沖縄には生息していない「ニシキヘビ」の皮を使っていました。つまり三線の皮は大昔からずっと、高級な輸入品だったのです。

貧しい庶民の家で簡単に買えるものではありませんでしたから、本物の蛇皮を貼った三線は、お金持ちの有力者の家にしかなく、庶民は蛇皮の代わりに渋紙を貼った「渋皮張り」を使っていました。
昔の沖縄のお金持ちのお屋敷には、床の間に三線が飾ってあったと言いますが、それは単に歌舞芸能を愛好しただけではなくて、富の象徴でもあったわけです。

なお現在、「ニシキヘビ」は世界的に絶滅の危機に瀕しており、ワシントン条約によって商業取引が厳しく制限されていますので、三線に使う蛇皮も「ニシキヘビ」に近縁の「ビルマニシキヘビ」を用するようになっています。現地に独自の「ファーム」を所有して、三線用の「ビルマニシキヘビ」の養殖事業を行っている三味線店(三線店)もあるそうです。

また現在では、天然ものの蛇皮の他に、ナイロン地に蛇皮模様などを印刷した「人工皮」も広く使われています。
本物の蛇皮は空気の乾燥などに弱く、またどんなに大事に使っても、数年の後には必ず破れてしまうものだそうですが、人工皮は温度や湿度の変化に強く、メンテナンスが楽で、音も本蛇皮と余り変わらないことから、プロの歌手などでも人工皮を愛用している方も多いようです。夏川りみさんや古謝美佐子さんも、人工皮の三線をお使いですね。

さらに、薄い布地を張った上にやはり薄い蛇皮を貼り付けたものもあります。「二重張り」とか「強化張り」と呼ばれています。「破れるのは困るけれども、人工皮では見た目が格好悪い。」というような方に人気があるようです。外見上は本蛇皮と区別がつきませんが、本皮張りや人工張りに比べると、皮全体がどうしても厚くなりますので、「音がこもる」と言う人がいますが、どうでしょう?(私は人工皮しか持っていませんので…。)

   
琉球三線と邦楽三味線
  邦楽の三味線は16世紀ごろ、沖縄の三線がヤマトに渡り、ヤマトで改良されて現在の形になったと言われています。ところが琉球の三線とヤマトの三味線とでは、大きさも材質も、奏法も楽曲も、全く異なっています。どうしてこんな違いが出来たのでしょう。
ヤマトでは琉球の三線の材質が手に入らなかったという事情はわかりますが、それにしても余りにも違いますが、その秘密はどうやら、楽器伝来の有り方に秘密があるようです。

琉球王国に中国から三弦が伝えられた時には、ただ単に楽器本体が渡来したのではなく、演奏者もそのまま、琉球国に移住し、しかも中国と言う先進国からの移住者ですから、琉球王国の中でも貴重な人材として重用されていました。琉球国の人々にとっては三線は、ただの楽器であるだけではなく、中国の先進文化そのものであったのです。
ですから琉球国の人々は、渡来したときそのままの蛇皮にこだわり、楽器の大きさや形状にも、さほど大きな変更を施そうとはしませんでした。

一方、三線が琉球王国からヤマトに渡来したときの事情は異なります。
中国から琉球への渡来の際とは異なり、演奏者自身が移住することはなくて、楽器単体だけがもたらされた様なのです。しかもそれを受容し、最初に取り入れて演奏したのは、一般庶民からも軽く扱われていた、琵琶法師などの放浪の芸能者でした。
彼等は三線という楽器とその音色には興味を持ちましたが、奏法は知りません。慣れ親しんだ琵琶のバチを使い、そのバチで弦を弾く、という奏法に変えてしまいました。
しかも別に、琉球文化に対する憧れなどは持っていませんでしたから、蛇皮が破れれば手に入れ安い猫や犬の皮で、胴の皮を張り替えていったのです。
その後、ヤマトの地では地域により演奏の目的により、様々な大きさの三味線や奏法が開発され、琉球の三線以上に多様な、独特の邦楽三味線の世界を形成するまでになりました。

外来の文化を自分たちの社会に受け入れて、すっかり自分たち流にアレンジしてしまう、三線から三味線への変化は、われわれヤマトの文化の一つの側面を良く表していると思います。

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