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素人の素人による素人のための八重山民謡ガイド[8]

月ぬ真昼間節
(つくぃぬまぴろーまぶし)

2006.05.29 記載

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実際に先生に習っているわけでもありませんし、沢山の本を読んだわけでもないので、
本来、とても他人様に八重山民謡を解説できるほどの知識は持たない私ですが、
もちろん私よりももっと知らない人もいるわけで、そういう方のために、
私が知っている限りの知識で八重山民謡の紹介をします。
これから八重山民謡を聞いてみようという時に、少しは参考にしてもらえるとありがたいです。

でも所詮素人の聞きかじりなので、かなりの間違いや思い違いがあると思いますが、
そんな時は堪忍して下さいね。

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最初に「月ぬ真昼間節」(「月ぬまぴぃろーま節」や「月ぬマピローマ」等の表記も)という曲名を見た時に、「なんだか間抜けな感じのする題名だなあ。」と思ったものでした。
で、実際に聞いてみた後も初めは、「ずいぶん間延びした、かったるい歌だなあ。」というのが正直な感想だったのです。
それがある秋の夜、通勤電車を降りてふと仰いだ暗い空に冷たく光る蒼い月を見た瞬間、無性にこの歌を聴きたくなり、そして唄えるようになりたいと思いました。私にとっては、そういう歌です。
(って、私がこの歌をきちんと唄えるようになるまでには、あとまだ200年くらい掛かりそうですけどねぇ…(^_^;;)

「月ぬ真昼間節」は八重山民謡の中でも「大唄(うふうた)」と呼ばれる特別な大曲、もしくは難曲と言ったら良いのでしょうか、唄うにも相応の技量と度量とを要求される歌。八重山民謡歌手のコンサートやライヴでも、クライマックスの“聞かせどころ”に用意される、名曲の一つと言われています。

ただ、個人的な感想でいうと、この歌が現代の八重山民謡歌手に好んで唄われるというのは、この歌が単なる大曲であったり、名曲であったりするというだけの理由ではないような気がします。どうも我々と同じ現代人である八重山民謡の“歌手”がこの歌を唄う場合には、現代音楽のミュージシャンが今の世の中で歌われているポピュラーミュージックを唄う時と同じように、個人的な感情や想いを込めて唄いやすい部分があるんじゃないでしょうか。

八重山の民謡と言うのは、例えば労働歌であったり祭礼歌であったり、あるいは応答歌(相聞歌?)であったり、“歌手”と“聴衆”が明確には区別されない中で唄われる形式(?)を持った歌が多いのではないかと思いますが、私は音楽や民謡の専門家ではありませんから良くは知りませんが、これはまあきっと、特に八重山の民謡に限らず、そもそも民謡全般に当てはまる原初的な形態なのでしょう。ですから基本的には、最初から「合いの手」が入ったり、(仮に)“聴衆”(となっている人々)の手拍子などが入ることを、ある程度の“前提”として唄われている(もしくは唄われて来た)部分があると思います。

ところがこの「月ぬ真昼間節」の場合には…。

途中で聴衆から「合いの手」が入ったり、あるいは手拍子などをされてしまったら、どうでしょうか?きっとがっかりするんじゃないかな?あるいは、現代の歌手の感覚であれば、自分の唄でこの“月ぬ真昼間節の世界”に聴衆を引き込むことが出来なかったのだと思って、ちょっと落ち込むんじゃないでしょうか。

私は「月ぬ真昼間節」という歌は、そういう、“唄う者”にも“聴く者”にも独特の緊張感(?)のようなものまで産み出してしまうほどの歌だと感じていますし、「声を失って聴き惚れる」というのが、この歌に最も相応しい聴き方なんじゃないかと思っています。だから、現代の八重山民謡歌手がコンサートやライヴのクライマックスにこの歌を好んで唄うのはよく分かりますし、多分、八重山民謡の“歌手”にとっても最も“唄い甲斐”があり、また“聴かせ応え”のある歌なのでしょう。もちろん、これは私の個人的な感想に過ぎませんから、実際の八重山民謡歌手の方たちがどんな風に感じているのか、私には全く分からないのですけれどもね(^_^;;。

さて、その「月ぬ真昼間節」ですが、実はこんな歌詞です(一番から三番まで)。

[歌詞]

月ぬ真昼間や やんさ潮ぬ真干り
夜ぬ真夜中や 美童ぬ潮時

月に願立てぃてぃ 星に夜半参り
思いすとぅ 我んとぅ 行逢しゆ給ぼり

思いすとぅ 我んとぅ 行逢さんどぅあらば
あたら我が命 取らばちゃすが

[歌意]

月が真昼間のように明るい夜は、潮もすっかりと干いて、
夜の真夜中は、美童(みやらび)の潮時

月に願いを掛けて、星に夜半参りする
想うあの人と私とが、どうか行逢えますように

想うあの人と私とを、行逢わせてくれないと言うのならば、
それならばいっそ私の命を奪って下さい。さあ!

ここで歌われている情景は「夜半参り(やふぁんめー)」という習俗で、真夜中に女性が男装して拝所に参り、想いを寄せる男性に会えるように祈願するというものなのだそうですが、現代のような明るい街灯など一つもない時代のお話です。しかもその姿は決して他人に見られてはならない。その上、「あの人に出会わせてくれぬのならば、いっそのこと殺してくれ!」と願うと言うのですから、単に「月が綺麗で真昼間みたいだなあ。」なんて呑気な話ではありませんね(^_^;;。ちょっと「丑の 刻参り」にも近い、鬼気迫るものがあります。

ま、こんな内容の歌詞を切々と歌い上げられたのでは、ナンパな現代人の我々には、下手に手拍子で応えるなんてことは出来ませんわなあ…(^_^;;。

ちなみに、歌詞だけ見れば一番から三番までたったこれだけの、短い「月の真昼間節」ですが、二番まで唄っても4〜5分、三番まで唄うと7〜8分という長い歌です(実は四番、五番もありますが(^_^;;)。
それだけゆったりとした歌ですので、最初、意味も知らずに聞いた時に、「かったるいなあ…。」と感じてしまったのでしょうね(苦笑)。

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その「月ぬ真昼間節」、やはり沢山の音源を入手することが出来ますが、その中から特に3つ、ご紹介しておきます。

最初は八重山古典民謡保存会が出している4枚組CD「八重山古典民謡集」から、大浜修の歌三線(「八重山古典民謡集」その四の(12)、「月ぬまぴろーま節」)。
このCDはきっと“お手本用”としての意味も込めて制作されたものなのではないでしょうか。多くの曲で合奏&合唱による演奏が採用されているのですが、流石に4巻のCDの一番最後に収められている「月ぬまぴろーま節」や「とぅばらーま」は独唱で、じっくりと聞かせてくれます。また仲盛克己の笛も抑えが効いていて印象的。「とぅばらーま」の伴奏にも言われることらしいのですが、やはりこの曲には笛の伴奏が合いますね。夜半の月の蒼さ、冷たさが良く伝わります。

次には若手の旗頭、新良幸人の「月虹」。
上にも書きましたが、この曲、非常にゆったりとして時間が掛かるものですから、たいていのCDでは二番までしか唄われていません(それでも4分以上かかるのですが…(^_^;;)。しかし歌詞を読めば分かる通り、三番を唄うのと唄わないのとでは、歌の世界観が全く違う物になってしまいますよね。二番までではもうひとつ、「夜半参り」に込められた、恐ろしいまでの乙女の情念というものが伝わらないような気がするのです。
その点、三番まできっちり唄って聞かせてくれるのは、さすがに新良幸人。この「月虹」というCDを制作した際にも、最初から、ラストは『月ぬ真昼間』と決めていたそうで、それだけ“思い入れ”のある曲だということなのでしょう。

そして最後は八重山民謡歌手にして石垣島の現役“海人”(うみんちゅ・漁師)である安里勇のセカンドアルバム「潮騒」。
顔に似合わぬ高い声(笑)と、“海人”ならではの脅威の肺活量で、ほとんど息継ぎなしに唄われる「月ぬまぴろーま」を、心ゆくまでご堪能下さい(笑)。
私はこの歌には笛の伴奏が不可欠だと思っていたのですが、このCDの「月ぬまぴろーま」は笛なし。それでも、「こういう『月ぬまぴろーま』も良いものなんだなあ…。」と思わせてくれました。

【お勧めCD】

  CD名 歌手名 レコード会社 商品番号
八重山古典民謡集 八重山古典民謡保存会 マルフクレコード FCD-1003〜6
月虹 新良幸人 エムアンドアイカンパニー MYCD-35006
潮騒〜八重山情唄〜 安里勇 Anima Music,Ltd AJCD-0011

さてそれでは、いつの日か、私がこの歌を唄えるようになる日が来るのでしょうか?うーん…(^_^ヾ。
平均寿命まで生きるとしても、あと30年ちょっとしかないからなあ…(苦笑)。

なお、八重山民謡の曲名や読み方の表記は、人により、CDにより、楽譜(工工四)により、必ずしも統一されていないのが現状です。
このページで採用している表記以外の表記も多いと思いますが、ご容赦下さい。

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