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素人の素人による素人のための八重山民謡ガイド・番外[2]

マクラム道路
(まくらむどうろ)

 

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実際に先生に習っているわけでもありませんし、沢山の本を読んだわけでもないので、
本来、とても他人様に八重山民謡を解説できるほどの知識は持たない私ですが、
もちろん私よりももっと知らない人もいるわけで、そういう方のために、
私が知っている限りの知識で八重山民謡の紹介をします。
これから八重山民謡を聞いてみようという時に、少しは参考にしてもらえるとありがたいです。

でも所詮素人の聞きかじりなので、かなりの間違いや思い違いがあると思いますが、
そんな時は堪忍して下さいね。

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八重山にとっての太平洋戦争とは何だったのか。を考えさせる1曲。これも「番外」の第2弾としてご紹介します。

「マクラム道路」という題名がついていますが、曲は「汽笛一声 新橋を〜」の「鉄道唱歌(作詞:大和田建樹、作曲:多梅稚。正式には「汽車」という題名だという話もあるようですが。)」そのもの。いわば替え歌です。ただし、八重山を含む沖縄の民謡では(そしてそもそも沖縄に限らず、民謡というものの全般において)、このような「替え歌」は、きわめて当たり前のことでした。

題名にもなっている「マクラム」とは、太平洋戦争の終了後の1946年10月に、南部琉球軍政府先任軍政官として石垣に赴任してきた米軍の「マクラム中佐」のことで、この「マクラム道路」はそのマクラム中佐への陳情によって貸与された米軍のブルドーザーやダンプカーを使って開削された、石垣(大浜町桃里)−伊原間間の道路(現在の県道390号線)を唄った歌です。
それ以前にはこの区間の道路はようやく人と馬とが通れるくらいの小道で、戦前から道路建設の必要が訴えられてはいたものの、経費の問題で実現することがなかったとか。それをマクラム中佐に陳情したところ、中佐は米軍の建設機材の貸与を即断。僅か2ヶ月弱で道路の開通に至ったとのことでした。ちなみに、この「マクラム道路」が八重山で初めて、ブルドーザーによって開削された道路という事になっています。その中佐の厚意に報いるため、道路は「マクラム道路」と名づけられ、仲間政光の作詞による歌までが作られ、歌われる事になりました。

と、まあ、このように書くと、まるで米軍が自らの事業を顕彰するために住民に強要した歌であるかのようにお考えになる方がいらっしゃるかもしれませんが、実際にはそんなことはありません。(むろん、私は当時のことは良くは知りませんので、それも推測に過ぎず、その意味では「そうではなかったようです。」と書くべきですが。)
この歌が石垣島で「流行った」と伝えられている事実からは、むしろ、八重山の人々がある一部分では心から、マクラム中佐に感謝もしていたし、「マクラム道路」も喜んで口にし、歌っていたのではないかと思われます(それに少なくとも「マクラム道路」の開通が石垣島の人々にとって大きな喜びであったことは、誰一人否定できない事実でしたし。)。
そこには同じ「沖縄」とは言っても、沖縄本島とは少々違う、八重山の戦前・戦後の姿があります。

[歌詞]

…(鉄道唱歌よろしく、「マクラム道路」沿いに現れる石垣島の風物を次々と歌い上げた後で、)…

緑晴れ着の連山は
空飛ぶ雲雀も白鷺も
マクラム道路を見下ろして
八重山開発祈るぞと

人馬も通わぬ伊原間へ
自転車 自動車 揺れるのも
マクラム中佐のお陰です
忘るな中佐 恩(おん)情(なさけ)

実は太平洋戦争終結までの八重山地方というのは、沖縄の中でもとりわけひどい差別と貧しさに苦しめられた地域でした。
歴史は琉球王朝時代にまで遡ります。沖縄の琉球王朝が、独立国とは言いながら、実は薩摩の支配を受け、搾取に甘んじていたことは有名だと思いますが、沖縄本島を中心とした琉球王国が薩摩からの搾取の“つけ”を回したのが、実は琉球王国時代の八重山(および宮古群島を含む先島諸島)だったのです。そこには沖縄本島地方にはない「人頭税」が課せられ、税収を上げるための無理な開墾(マラリアの流行地域での開墾など)の強要と、開墾労働力を確保するための強制移住が繰り返されました。また、沖縄本島地方に住む「ウンナンチュー」に比べると、八重山に住む人々は「ヤイマンチュー」として一段「低く」見られ、蔑視される部分すらあったのです。
(※ご興味のある方は是非、ご自分でお調べ下さい。)

明治維新に続く「琉球処分(1872〜1879)」によって「琉球王国」は消滅しましたが、それでも「人頭税」は続き、その過酷な税が廃止されたのはようやく明治36(1903)年になってからでした。八重山の人々にとってようやく、全国一律の生活条件が整ったのですが、それも束の間、世界恐慌に連なる不況の中で、八重山では「蘇鉄地獄(食べるものがなくて毒のある蘇鉄の幹を食べてしのいだ。)」と呼ばれる飢餓の時代が続きます。

そしてやがて太平洋戦争が始まって、戦況が激化し、米軍が沖縄に近づくと今度は、「本土防衛」を命題とする日本軍が遠い“内地”から大挙してやって来て(それ以前には八重山にはほとんど、戦争の防備施設がありませんでした。)、まず真っ先に八重山の人々を苦しめることになりました。労働力(=働き手)と物資の徴用と、それによる飢餓の進行に加え、飛行場建設のためや日本軍の作戦進行を妨げるなどの理由で無理な強制移住・強制疎開が行われ、かつての開墾のための強制移住と同様、再び、マラリアの大流行、それによる島民の大量死などが引き起こされました(戦争マラリア)。西表島の南風見田の浜にある「忘れな石」に記憶が刻まれた、波照間島の事例などは有名ですね。

このように、繰り返し繰り返し、時の権力者(=それは時に「ヤマトンチュー」であったり、時には「ウチナンチュー」でさえありました。)からの搾取にあえぎ、苦しんでいた八重山の人々にとっては、たとえ占領軍であったとしても、米軍支配下の新しい生活が、ずっと恵まれた生活に感じられたとしても不思議はありません。八重山の人々にとっては、米軍の支配下に入ることによって初めて、日本“本土”の人々と(どころか、沖縄本島の人々とでさえ、ようやく)平等に扱われることが出来るようになったのですから、その意味では、米軍=解放軍として感じられた部分が、確かにあったのではないか。と、私などは考えてしまいます。(もちろん、それは八重山の人々のプライドを無視した部分の話ではありますから、八重山の人々自身でさえ、決して認めないことではあると思いますが…。)

しかも結局、米軍は八重山を空襲したのみで上陸はせず(とは言ってももちろん、大きな被害は出たわけですが)、地上戦が行われることもありませんでした。また太平洋戦争終結後も八重山に米軍基地が作られることはなく、米軍の基地の負担も、直接的には関係のない話になりました(もちろん、全く関係ないという話ではありません。あくまでも沖縄本島地方の人々に比べれば。という話ですが)。

結果、客観的事実を冷静に判断すると、八重山の人々にとっては米軍よりは日本軍の方がよっぽど迷惑な存在であったことは紛れもない事実で、米軍はその迷惑な日本軍を武装解除して島外へ追い出してくれた(もちろん、一部は島内に残留しましたが)上に、八重山の人々の貧窮を救い、念願の「八重山開発」を援助してくれたのですから、このように考えて見ると、八重山にとっての「終戦」と「米軍」は、沖縄本島地方の人々にとっての「終戦」や「米軍」とは、ある部分では、全く違う存在だっと考えても、あながち間違いではないのではないか、と、私は思っています。

実はこの歌の題材となった「マクラム道路」以外にも、八重山には米軍関係者の名前をつけたいくつかの道路があります。米原地域と西表古見一帯のオグデン道路、川原地区のリースン道路など。また同じ「先島諸島」の中に入る宮古島にもまた、同じ名前の「マクラム道路」があるそうです。
より長く、密接に米軍と関係していた沖縄本島に、米国軍人の名前をつけた道路など存在しないことを考えると八重山(と宮古島)の人々にとっての「米軍」の存在がどのようなものであったのか、その一面の真実が、そこに現れているのだろうと、私は考えます。

とは言っても、この「マクラム道路」という歌とその「流行」という現象に示された、米軍に対する八重山の人々の態度を、迎合的だと批判したり、いわゆる「ストックホルム症候群」だと捉える方もいらっしゃるのではないでしょうか。その気持ちはもっともだとも思いますし、私もこの歌に、そしてそれを歌った八重山の人々に、そうした面があったことは否定しません。ただそのように批判したり、あるいは批評する場合にも,八重山の人々がそのような態度を取るだけの“下地”が八重山にあったということもまた、否定できない事実であり、そのことを忘れて八重山の人々だけを非難することは、いささか無神経で、かつ傲慢な態度なのではないかとも思っています。

また実際、同様なことが世界中で八重山でしか起きなかった特殊なことのかというと、そんなこともありません。私は以前、南太平洋のポナペ(ポンペイ)にダイビングに言ったとき、現地の人々が日本人に対して非常に友好的であり、また高齢者の方が上手に日本語を話すことに驚いたことがありますが、そうしたお年寄りたちに話を聞くと、その島に初めて学校を作り、病院を建てたのは日本軍(というか、正確には日本政府なのでしょうが)だったと言うんですね。彼らはそこで初めて読み書きを知り、しかも太平洋戦争の際にも、軍事上重要な拠点でもありませんでしたので、周囲の戦局が厳しくなるとさっさと、日本軍は撤退してしまって、激しい戦闘も行われなかったということなのです。
その結果、その島の人々にとっては日本と日本人に対して良い印象ばかりが残り、それで、現在までも、自分の子供に日本風の名前をつけている人すらいます。縮れ毛で肌も真っ黒で、どこからどう見ても純粋なチャモロの青年(は、実際に純粋なチャモロの血筋なのですが。笑)に名前を聞くと、「Choichiro」とか、「Kichinosuke」とか、我々の祖父のような名前を答えられて、私は妙な気分になったことがありました。

念のために申し上げておきますと、私は米軍の占領を正当化するつもりは少しもありませんし、その統治を賞賛するつもりも全くありません。一方、「大東亜共栄圏」なんてものも全く信用していませんし、ましてや、日本の韓国併合にも「良いところもあった」などと、寝呆けた事を言う者は、さっさと首をを括った方が良いくらいに考えている者です。それでも、例えば日本の敗戦、米国の占領ということに対しても、同じ沖縄県内でさえ、色々な見方が出来る。しかもそうなった状況の裏側には、様々な、そして長い歴史があるということを、是非忘れないでいたい。と、そのように思って、この「ガイド」を書いています。この「マクラム道路」という歌のことを考えると、自然、そうしたことへ思いを巡らさざるを得ないと思うからです。

私は、マスメディアなどではとかく「楽園」として、「癒しの島」などとしか取り上げられない「沖縄」に、それだけでは語れない多くの世界があることを、せめて八重山民謡に興味を持つような人は、知っておくべきではないかと思います。その意味で、「番外編」ではありますが、この「マクラム道路」という歌を、皆さんにご紹介します。この歌の存在を知る事がきっかけとなって、沖縄と八重山の歴史に少しでも、興味をもつ人が増えてくれたなら、私にとってこれ以上の喜びはありません。

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さて、その「マクラム道路」を聞けるCDですが。
私は残念ながら、やはり大工哲弘の「ウチナージンタ」以外に、この歌を聴けるCDを知りません。そもそも「替え歌」ですし、占領下の沖縄の、しかもそのまた一部の石垣島で「流行った」というだけの歌ですから、実際のところ、CDで聞くのは難しいかもしれませんね。「ウチナージンタ」というCD自体、本来は八重山民謡の唄者である大工哲弘が、ジンタの形式で様々な唄を歌った興味深いCDですから、是非お聞きいただきたいと思います。

しかもこの「ウチナージンタ」というCD、私がこのページで長々と書いた八重山の歴史を踏まえながら聞くと、中々に意味深長な構成となっています。
まずオープニングがこの「マクラム道路」で始まり、その後は「カチューシャの歌」など、戦前の「ヤマト」の“流行り歌”が続いた後、後半になって[八重山民謡ガイド・4]でもご紹介した「ヤマト口」の「新・安里屋ユンタ(このCDでの表記は単に「安里屋ユンタ」)」が歌われ、その後にすぐ[八重山民謡ガイド番外篇・1]でご紹介した「沖縄を返せ」が続くのです。そして「新港節」「さよなら港」と、港と別れを歌った歌が2曲入った後にCDのエンディングは「マクラム道路」と同様、「鉄道唱歌」の替え歌である「川平線風景」。これは「マクラム道路」の5年後、1952年に小波本直俊によって作詞された歌で、当時、石垣島の上水道敷設に貢献した市長、牧志宗得の業績を顕彰する内容の歌です。

私は八重山の歴史を知れば知るほど、生粋のヤイマンチューである大工哲弘が、1枚のCDの中に、これらの歌を納めた「意図」を考えずにおれません。大工自身はある意味“政治的な”意図を前面に出すことは否定して、「自分が子供の頃、良く聴いていた歌を集めただけ。」と言っているようですが、どこまで信じてよいものか。そこには大工自身、はっきりとは整理できておらず、また言葉にすることも出来ないながら、やはり、虐げられてきた八重山の人々と、その歴史に対するリスペクトを求める心が通っているように思えるんですね。(もちろん、そんな難しいことを考えなくても、十分に楽しめる音楽CDなわけですが)。

【お勧めCD】

  CD名 歌手名 レコード会社 商品番号
ウチナージンタ 大工哲弘 オフノート ON-1

※追記

繰り返しますが、私が特にこの「マクラム道路」をご紹介するのは、そこに「沖縄本島」とは明らかに異なる「八重山」を見る(聴く?)ことが出来ると思うからです。実はあまり知られていない事実ですが、日本軍の敗戦以降、米軍による統治が始まるまでの短い政治的な空白期間の間に、八重山では日本国どころか、沖縄県からも独立して、「八重山共和国」を作ろうという動きすらあったのです。(詳しくは「八重山共和国−八日間の夢−桝田武宗/筑摩書房/1990」を参照のこと。)
我々「ヤマトンチュー」から見れば同じ「沖縄」に見える「沖縄」と「八重山」は、実はこのように遠く、離れた存在でもあります。何しろ沖縄本島の那覇と石垣島の間の距離は500km。東京−大阪間と同じくらい離れているのです。しかもその間には両者を繋ぐ陸地はなく、広大な東シナ海が広がるばかり。そう考えれば、むしろ「沖縄」と「八重山」を同一視する事の方が無理、というか、少なくとも無理解である事は間違いないのですけれども…。
とにかく、沖縄とはかように広く、また複雑な、奥深い存在なのです。

なお、八重山民謡の曲名や読み方の表記は、人により、CDにより、楽譜(工工四)により、必ずしも統一されていないのが現状です。
このページで採用している表記以外の表記も多いと思いますが、ご容赦下さい。

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