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桜海老

(さくらえび)

〜 由比の海のおはなし 〜

 

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<1>

 昔、駿河の国の由比の村は、ろくに魚も取れぬ貧しい漁村であった。
 その村に三人の娘を持つ、やはり貧しい漁師の夫婦が住んでいたが、ある時を境に女房が病を得て床についたきりとなると、蓄えもない漁師のこと、たちまちその日の飯にも困るほどになってしまった。

 そんなある年の盆のこと、盆の間は漁には出ないというのが漁師の間の決まりごとだったのだが、貧しい漁師の家ではいよいよ、食い物が底をついてしまった。

 とはいえ、「うまいものをたんと食わさにゃぁ、治る病も治らないだよ。」と、医者に言われると、どうにも背に腹はかえられぬ。貧しい漁師は漁師仲間の禁を破って、こっそりと漁に出ることにした。

<2>

 さて、貧しい漁師が網を掛けると、さすがに他の漁師が休んでいるだけのことはある。珍しいほどの大漁で、漁師の舟はたちまち魚でいっぱいになった。
 「やれ、うれしや。これで女房、子供に腹一杯の飯を食わせられる。」
と、喜んだ漁師は網をしまいかけたが、その時、空がにわかにかき曇り、青かった海はたちまち鈍い鉛の色に変わって、見たこともない様な大波が押し寄せて来た。漁師がその波と波との間に目を向けると、大きな大きな黒い影の真中にふたつのまなこをぎらぎらと光らせた化け物が、漁師をめがけて泳いでくる。

 漁師は「さては、禁を犯した報いか。」と、いったんは覚悟を決めたものの、ここで自分が化物に食われたのでは、女房も娘も飢え死にするばかり。真っ赤な口を開けて、今にも漁師をひと呑みにしようとする化物に向かって、大きな声で叫んだ。

「おう、おらを呑みこむ前に、ちいっとで良いけん、おらん話を聞いてくりょう。
漁をしちゃあいかん決まりの盆の間に漁へ出たのは、いかにもおらん悪かっただ。
だけえが、それもこれも、病の女房や子供のためだ。
おらん今、死にゃあ、その女房子供も飢え死にする。
あんたにも情けというものが分かるなら、なんとか命ばっかりは助けてくりょう。
命さえ助けてくれりゃあ、おらぁなんでも、あんたの言うことを聞くんて。」

 一心に頼む漁師に心を打たれたのか、あんぐりと開いた口をそのままに、化け物が言った。

「われんそれほど言うなら、助けないわけでもないだ。
ただその代わり、われの一番の宝をよこせ。
一番の宝をおらによこすなら、わりゃ、このまま帰してやらず。」

 言われた漁師は困って答えた。

「おらあただの貧乏な漁師だもんで、宝と言われても何も持ってないだ。
ただ三人の娘があるばかりだ。」

 それを聞いた化け物は、嬉しそうに答えた。

「宝も宝、子宝にまさる宝があらすか。
そしたら、その娘のうち一人を、おらん嫁っこにもらわず。
今日から三日の後、われの家に迎えに行くんて、きっと約束を違えるまいよ。
もし約束を破った時には、われの村もろとも、海ん中に引きずり込んでやらず。」

 化け物はそれだけ言うと、漁師の返事を待つ間もなく、たちまち海の底に姿を消した。
 と、同時にあんなに荒れていた海はたちまち静かに収まり、おそるおそる顔を上げた漁師の頭の上には、今はもう、ただ青い空が見えるばかり。

<3>

 漁師は急いで舟を戻し、いっぱいの獲物を抱えて家に戻ったが、化物との約束が頭を離れぬ。
 珍しいほどの大漁にも浮かぬ顔の父親を見て、娘どもが口々に尋ねた。

「とうちゃん、いったいどうしただ、浮かぬ顔して。」

 漁師がかくかくしかじかと訳を話すと、上の娘が答えて言った。

「そりゃあ、一番姉のおらん嫁に行ってやりてえだが、おらん嫁にいったら、漁の手伝いは誰がするだ。海女仕事もやめるわけにはいかねえずらよ。」

 それを聞いて二番目の娘も言った。

「そしたらおらが嫁に行ってやりたいだけんが、そしたら飯の支度はどうすりゃあ良いだ。おっかあの病気もままならねえに、家の世話は誰がするだよ。」

 これをじっと聞いていた末の娘は、三人の中でも一番の甘えっ子で、とてもまだ嫁になど行けるわけもないと誰もが思っていたが、やがてきっぱりと顔を上げて言った。

「ねえちゃんたちが嫁に行けねえなら、おらん嫁に行く。おら、どうせ家にいても、みんなの世話になるばかりだ。おらん嫁に行きゃあ、みんなが助かるだんて、おら、こんな孝行なことはねえ。なあ、おらを嫁にやってくりょう。」

 まだ幼さの残る末の娘の口から、思いも掛けぬ言葉が出てくるのを聞いては、両親も二人の姉も、ますますこの娘を化け物の嫁になどやれるものかとは思ったが、さりとて別の妙案もない。いっそのこと一家揃って由比の村を捨て、山の奥にでも逃げようかとも思ったが、化け物との約束を破れば、今度は村の皆にまで迷惑をかけるやもしれぬ。二日二晩、考えに考えて、漁師はとうとう、末の娘を化物の嫁に出すことに決めた。

<4>

 さて、約束の三日目の朝、末の娘は母親が嫁に来たときに着ていた、ただ一枚の赤い晴れ着を着せてもらい、かねて約束の浜辺に立った。すると間もなく、穏やかだった由比の浜の沖に一匹の大蛇が姿を現わし、すべるように一気に娘の目の前まで泳いでくると、親子別れの挨拶を待つ間もなく、娘を自分の背中に乗せ、たちまち沖へと泳ぎ去った。

 やがてその姿も波間に消えようかというとき、大蛇の背に乗った娘が、浜辺で見送る父親に言った。

「おらぁ、長い間育ててもらって、ろくな孝行もしなかっただけえが、あともう一つだけお願いがあるだよ。
おら、海ん中に嫁に行くだけえが、心残りが一つだけある。
おら、桜の花が何より好きだもんで、海ん中で花見が出来ないのが何より寂しいだよ。
出来れば、さったの峠の山道に、たあんと桜の木を植えてくりょう。
さったの峠の山道なら、海の中からだって良く見えるにちがいないんて。」

 漁師はきっと桜を植えてやると、涙の中に約束したが、その答える声も娘には届いたかどうか。
 大蛇もろとも、娘の姿は見えなくなった。

<5>

 さてそののち、漁師は娘との約束どおり、その一冬を掛けて、さったの峠の山道に、一本一本、桜の木を植えてまわった。やがて、春になり、その桜がいっせいに花をつけると、それはもうただただ見事な眺め。さったの峠道は東海道に名高い桜の名所となった。
 また丁度その頃から、由比の浜の沖では、たくさんの赤い小海老が獲れるようになって、由比の村は駿河の海の村々の中でも、とりわけ豊かな村となった。
 由比の人々はその海老に「桜海老」と名を付けて、「海の底に嫁に行った娘の恩返しに違いない」と噂し合ったということだ。

おわり

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